人生のログボ

是非読んでください。

自動人形の城 人工知能の意図理解をめぐる物語

人工知能の話題についてはこれから先きっと重要になってくるだろうから、知識をつけておきたいと思っていた。このほど大学の講義で「機械翻訳」に関するレポートの参考書籍として示されていたので、ひとつ読んでみることにした。

 

内容は人工知能のメタファーとして登場する「自動人形」(魔法で作動し、主人の命令を遂行する)と、我儘な一国の王子を中心に回るファンタジーである。この自動人形が曲者で、主人の命令に少しでも不備があると、全然違う動きをしてしまう。例えば、王子が「城を守れ」と命令すると、彼らは城の壁にへばりついて「守って」しまう。僕たち人間が、いかに無意識下で相手の意図を汲んでいるかがよくわかる。そしてそれを、機械たる人工知能にわからせることは、いかに難しいことだろう。もちろん、自動人形の描写全てが、現行の人工知能を忠実に表しているとは思わないし、それは(「魔法」という概念を持ち出している時点で)都合が良すぎるというものだと思う。ただ、人間が自分の中でどのように言語を処理しているのか、思いをめぐらすきっかけになる。
僕が中学生のころから、「人間は人工知能に職を奪われる」という危惧が社会に上がっていたが、こうしてみるとまだまだ彼らが人間の職を奪い尽くし、人間の命を狙うディストピアとは程遠いようにも思われる。

 

将来についてちょっと楽観的になった。人間が誰しも持っている無意識下の複雑さについて、もう少し考えてみようと思う。そういえば、いっとき流行った「人工知能の侵略」論もどこかへ行ってしまったような。
 

現代落語論

徹頭徹尾落語についての本。とりあえず落語のことを知りたいと思って、Youtubeでたまたま見つけた談志の「子ほめ」が格好良かったこともあって手に取った。「落語入門」では全くないので、内容として楽しむならば、もう少し落語について明るくなってから読んだ方が面白かったと思う。まだ落語初心者から脱していない僕が読むと、「落語界の独特奇妙な世界観」を味わうことはできても、それ以上踏み込んだ読みはできない。表面を見てその見た目を楽しむところで止まってしまったの感がある。
 
時代が古いことも、イマイチその内容に踏み込みきれない一因だろう。「現代落語論」といえど、「現代」というのは昭和真っ只中であって、僕は全く生きたことのない時代だ。そこで落語がどうなっている、と言ったところで、今とは状況が極めて異なろう……。とも思ったが、落語界というものが、やはり「大衆」に受けているものではないのは確かにそうで、漫才コントはみんなが見ているが、落語を見る者はある種スキ者のように見られる向きがある。これはこの本が書かれた時期と今とで共通のことである。
 
ただ、落語界というのは全く腹立たしいくらいに面倒な世界だ。当然歴史と伝統ある芸の中では、かなりゆるいことに違いはないのだけど、全くの初心者が入って行くと、「ナンダカ面倒くさいなァ」と思ってしまうことが多々ある。別にただ聞くだけなら面白がって居れば良いと思っていたが、笑いどころにも「慣れ」というものがあるらしい。笑いが取れれば100点ではないというのか。僕はちょっと落語を自分でもやってみようと思っている口だからことはさらに複雑だ。玄人に何か言われたらと思うとヒヤヒヤするし、多分「自由にやらしてくれよ」と思ってイラっとしちゃう。

 

僕は、こういうことをイヤだとは思っていない。ヒヤヒヤもするしイラッともするだろうが、そういう世界はとてつもなく格好良く、また愛おしいものだと思う(偉そうに何を言っているのか……)。メンドウだからといって逃げてしまうのはまさに逃げであって、それは僕が一番嫌いなことだ。面倒だからこそ向き合ってみれば、何か見つかるのではないかと思うし、そこにあるものをミスミス逃してしまうのはとても怖い。臆病者だから。
それに、みんなとチョット違うことをしてみたいと思っている僕にとって、落語というのは格好のものだ。そういう態度の人間がが、落語業界にとって良い存在かはわからないけれど。

 

根が時代錯誤なので、古典落語の人情味には憧れるし、現代にあってそういうものを持った人間でありたいとも思っている。談志からすれば、それはどうもちょっと違うことのようで、現代でやるなら現代に合わせなきゃいけないという。けれど、復古的な立場から、落語の良さを考えたって良いのではないか。現代には沿わないのではなく、現代を「沿わせる」という考え方だって良いと思う。これこそ現代に必要なものというか、これから先の時代で何か、役に立つものではないかと思う。