人生のログボ

是非読んでください。

浅草フォット

昨日落語のための着物を買いに浅草に行ってきた。ちゃんと行くのはガチで十数年ぶりになる。十数年ぶりなので前回行った時の記憶(数歳の時)はほとんどないのだが、なんだかずいぶん変わったみたいだ。

 

まず、洒落着物の若者が大量にいる。別に洒落着物を着ていること自体はなんら問題もない。華やかだし。だがそこかしこでパシャパシャ写真を撮っているのは問題だ。壁とかを背に撮ってくれるならいいが、開けたバックで撮っているのが問題だ。

 

それじゃ写っちゃうだろ、僕が。

 

人の写真の背景にぼんやり歩いている僕が写るのは恥ずかしいし、向こうだってぼんやり歩いている僕が背景に写り込むのは本意ではないだろう。僕は溢れ出る自意識を持っているから、そういうことを気にしちゃうのだ。

連中にフォトショップか何かで消されるのも気に食わない。背景の人を消す?失礼だろ。その人にも人生とかあんだよ。受け入れろ、存在を。体よく消すな。ていうか不自然だろ。浅草に人がいないわけないんだから。人がいての浅草だと思うけどな(別に彼ら彼女らがフォトショで人を消すと決まったわけでもないのだが)。

 

幼少期の掠れた記憶を辿ってみても、浅草は大混雑だった。人波に揉まれるというやつだ。当時は身長も低かったから、長い仲見世通の前の方ががほとんど見えなかった。寺の堂内なんておしくらまんじゅうで、お賽銭箱に辿り着けないからお賽銭を投げる人がいた。子供ながらに混雑といえば浅草とまで思っていた。久しぶりに堂内にも入ったが、まさしく伽藍堂、全然人がいない。なぜだか記憶の浅草寺より狭く感じた。混雑していた時の方が間違いなく狭かったろうに、不思議なものだ。

おみくじでも引いて帰ろうかと思ったが、浅草寺の御籤は凶が多いと聞いたのでやめた。お神籤を引くときは神様にききたいことを具体的にイメージしておいた方が良いらしいが、神様にあえて質問するほどのこともなかったし。

 

人がだいぶ減った仲見世通りは大変見晴らしが良くなったのだが、件のカメラに写るまいと苦心していたから歩きづらかった。もうあえて、写り込む前提でバックからバリバリふざける海外のyoutuberとかがよくやるやつをひとつやってやろうかと思ったが、流石にその度胸はなかった。

 

ああ、こういう時代の変化を観音様は寂しく思ったりするのかな~、と思いながら浅草の駅を出たのだが、多分神仏は人間より上の境地に達しているから、そんな変化も気に留めないんだろうな。せっかく浅草に着いたなら、捕鯨船も見に行けばよかった。